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第3話 十二分後の目撃者

last update publish date: 2026-10-03 11:51:26

第3話 十二分後の目撃者

 詩織は、玄関の向こうに立つ女をすぐには家へ入れなかった。

 インターホンの画面越しでは、女の表情は細部まで読み取れない。けれど、こちらを騙そうとしている人間の落ち着きとは違う種類の怯えがあるように見えた。何度も背後を振り返り、エレベーターホールのほうを気にしている。

「お名前を聞いてもいいですか」

 詩織が尋ねると、女は一瞬ためらってから答えた。

『七〇三号室の柚木です。柚木由香里。たぶん、何度かエレベーターで一緒になったことがあります』

 七〇三号室。

 詩織たちの部屋は七〇六号室だった。

 名前に覚えはなかったが、顔にはわずかな見覚えがある。ゴミ出しの時間に廊下ですれ違ったことがあったような気がした。

「警察には、そのことを話しましたか」

 由香里の表情が硬くなった。

『まだです』

「どうしてですか」

『だから、それを説明したくて来たんです。ここで話すのは……ちょっと』

 詩織は返事をしなかった。

 夫が死んだ朝に、見知らぬ隣人を自宅へ入れる。

 普通なら避けるべきだ。

 だが普通ではないことが、昨夜から何度も起きている。

 寝室に置いたはずの夫が消え、四キロ離れた河川敷で刺されて見つかり、二十歳の女子大生が自首し、そのうえ今度は、夫が深夜に知らない男と一緒に家を出たという目撃者まで現れた。

 詩織は玄関の鍵を一つだけ外し、ドアを細く開けた。

「すみません。少しだけ待ってください」

「ええ、もちろん」

 由香里は無理に入ろうとはしなかった。

 その反応を確かめてから、詩織はチェーンも外した。

 由香里は室内へ入り、玄関で靴を脱いだところで足を止めた。下駄箱のほうを見たように思えたが、すぐに目を伏せる。

「朝から本当にすみません。こんな日に来るなんて非常識だって分かってるんですけど、私も何をどうしたらいいのか分からなくて」

「警察が来たことは知っているんですか」

「見えました。廊下から」

 詩織は由香里をリビングへ通した。

 ダイニングテーブルの上には、外したままの壁時計が置いてある。

 由香里はそれを見ると、少し不思議そうな顔をした。

「時計、壊れたんですか」

「少し遅れていて」

「そうなんですね」

 それだけだった。

 十二分。

 その数字を、詩織は口にしなかった。

 由香里にはソファを勧め、自分は向かいの椅子へ座った。コーヒーを出す気にはなれなかった。昨夜のカップを思い出してしまう。

「さっき、ご主人が男の人と一緒だったとおっしゃいましたよね」

「はい」

「何時ごろですか」

「正確には分かりません。でも、零時半を少し過ぎたくらいだったと思います」

「どうして、その時間だと」

「娘からメッセージが来たからです」

 由香里はバッグからスマートフォンを取り出した。

「うち、娘が高校生なんですけど、昨日は塾の自習室を使ってて、帰りが遅くなったんです。駅に着いたから迎えに来てって連絡が来て、それで私、廊下へ出たんです」

 画面を操作し、メッセージ履歴を詩織へ向ける。

 そこには確かに、午前零時二十八分に、

『駅ついた。迎えお願い』

 という短いメッセージが表示されていた。

「これを見て、すぐ家を出ました。だから真山さんのご主人を見たのは、零時三十分から三十二、三分くらいだと思います」

 詩織の頭の中で時間が並ぶ。

 午前零時十四分。

 貴之の呼吸が止まったと確認した時刻。

 それから詩織は遺体を寝室まで運び、布団をかけ、リビングへ戻った。

 零時半前後なら、自分はまだ起きていたはずだ。

「その男の人は、どんな人でしたか」

「顔はよく見ていません」

「年齢は?」

「三十代後半か、四十代くらいだと思います。ご主人より少し年上に見えました。背も高かったです」

「服装は」

「濃い色のコートでした。スーツだったような気もしますけど、そこまでは……」

 由香里は自信がなさそうに首を傾けた。

「ただ、ご主人のことを支えていたのは間違いありません。肩を貸すみたいにしていました」

「歩けない状態だったんですか」

「完全に歩けないという感じではありませんでした。足は動いていました。ただ、かなり具合が悪そうで」

 詩織の手が膝の上で強く重なった。

「顔色は?」

「白かったです。びっくりするくらい。最初は酔ってるのかなと思ったんですけど、お酒でふらついてる感じとは違いました」

 毒が効いていた。

 そう考えるのが自然だった。

 だとすれば、やはり貴之は死んでいなかった。

「会話は聞こえましたか」

「少しだけ」

 由香里はそこで言葉を濁した。

「何を言っていました?」

「ご主人が、その男の人に……『遅い』って」

 詩織は由香里の顔を見た。

「遅い?」

「はい。はっきり聞こえたのは、それだけです。そのあと男の人が何か返してましたけど、声が小さくて分かりませんでした」

 詩織は無意識にテーブルの時計へ目をやった。

 十二分遅れた時計。

 その瞬間、昨夜の光景が不意に重なった。

 貴之は帰宅してから、時計を見た。

 そして狂っていることを指摘した。

 いつもの嫌味の一つだと思っていた。

 だが、もしそうではなかったなら。

「その二人は、どこから出てきたんですか」

 詩織が尋ねると、由香里は一瞬だけ黙った。

「真山さんの部屋の前です」

「前?」

「はい。私が廊下へ出たときには、もう二人ともいました」

「この部屋から出てくるところは見ていないんですね」

「ドアが閉まるところは見ました」

 詩織の呼吸が止まりかけた。

「どのドアですか」

「ここの」

 由香里が玄関の方向を指した。

「ご主人を支えていた男の人が、後ろ手で閉めました」

 室内へ入った。

 その男は、詩織の家の中にいた。

 詩織は記憶を探った。

 物音。

 玄関の開閉音。

 誰かの声。

 何も覚えていない。

「そのとき、私を見ましたか」

 由香里が怪訝そうに眉を寄せる。

「真山さんを?」

「私が一緒にいたとか、玄関にいたとか」

「いえ。奥様は見てません」

「そうですか」

 自分はその時間、どこにいた。

 リビング。

 床を拭いていたのか。

 食器を片づけていたのか。

 あるいは、すでにソファに座っていたのか。

 自分の中の時間が急に曖昧になった。

 人は重大な出来事ほど正確に覚えているものだと、どこかで思い込んでいた。だが実際には、恐怖の中で刻まれた記憶は、必要な部分だけが異様な鮮明さを持ち、その周囲が黒く抜け落ちている。

「柚木さん」

「はい」

「なぜ警察に話さなかったんですか」

 由香里はスマートフォンを両手で持ち直した。

「今朝、警察の人を見て、最初はすぐ話そうと思ったんです。でも……ニュースを見たんです」

「ニュース?」

「ネットの速報で、ご主人が河川敷で亡くなったって」

 詩織はまだニュースを確認していなかった。

「それを見たら、怖くなってしまって」

「何がですか」

「だって、私が見たのは、まだ生きてる真山さんのご主人です。でも警察はもう、ご主人が河川敷で亡くなったことを知ってるんですよね。しかも女の子が自首したって」

「そのことまで報道されているんですか」

「自首した若い女性がいる、とだけ」

 由香里は唇を舐めた。

「それなら、私が見た男の人って何者なんだろうって思ったんです。もし事件に関係してる人だったら、私が見たことを知られたら……って」

「それなのに、どうして私には話したんですか」

「奥様なら知ってるかもしれないと思ったからです」

「誰なのかを?」

「はい」

 由香里の目には、怯えだけでなく困惑もあった。

 そして、それ以上に、言うべきか迷っている何かが残っている。

 詩織はそれに気づいた。

「まだ何かありますよね」

「え?」

「さっきから、言いにくそうにしてる」

 由香里はすぐには否定しなかった。

 それどころか、目を伏せた。

「ごめんなさい。こんなときに言うことじゃないと思ったんですけど」

「話してください」

「……男の人のほうは、見たことがあります」

 詩織は背筋を伸ばした。

「どこで?」

「このマンションです」

「住人ですか」

「違うと思います。何度か、ご主人と一緒にいるところを見ました」

「何度か?」

「去年の秋ごろから、たぶん三回くらいです。地下の駐車場とか、エントランスで」

 詩織には心当たりがない。

「夫の友人でしょうか」

「そうなのかもしれません。でも……」

 由香里はまた言葉を止めた。

「でも?」

「仲のいい友人って感じには見えませんでした。一度だけ、駐車場で言い争ってるところを見たんです」

「何を言っていたか覚えていますか」

「細かいところまでは。でも、ご主人がその人に『それは約束が違う』って。相手の人は『もう付き合いきれない』みたいなことを言ってました」

 仕事関係者。

 詩織はまずそう考えた。

 貴之は仕事の揉め事を家へ持ち込まない人間だった。正確には、詩織に話さない人間だった。

「顔を見れば分かりますか」

「たぶん」

「写真でも?」

「はい」

 そこまで聞いて、詩織は立ち上がった。

 貴之の仕事関係者の写真が、自宅にあるかもしれない。

 会社のパーティー。

 結婚式。

 年賀状。

 ただし、自分が勝手に探しているところを由香里に見せるべきではない。

「少し待っていてください」

 詩織は寝室へ向かった。

 机の引き出しを開ける。

 貴之の私物には、普段なら触れなかった。

 触れば必ず分かるからだ。

 書類の位置。

 ペンの向き。

 引き出しの隙間。

 それほど細かいところまで貴之は覚えていた。

 今はもう怒られることはない。

 そのはずなのに、引き出しを開ける指先には、四年間で染みついた躊躇が残っていた。

 名刺の束。

 封筒。

 古い領収書。

 その奥から、会社関係の集合写真が何枚か出てきた。

 一枚目。

 二枚目。

 三枚目。

 詩織の指が止まった。

 都内のホテルで撮られたらしい写真だった。

 十人ほどの男女が並んでいる。

 中央に貴之。

 その二人隣に、背の高い男が立っていた。

 年齢は四十歳前後。

 穏やかな顔立ちだが、写真の中でもどこか他人と距離を取っている。

 写真の裏には、日付と名前が手書きされていた。

 木島隆臣。

 詩織はその名前を知っていた。

 貴之が数少ない仕事の話の中で、何度か口にしたことがある。

「木島さんがまた余計なことをした」

「木島は慎重すぎる」

「木島には判断が遅いところがある」

 褒めていた記憶はほとんどない。

 だが、それだけ名前が出るということは、関わりの深い人物だったはずだ。

 写真を持ってリビングへ戻った。

「この中にいますか」

 由香里は写真を受け取り、ほとんど迷わなかった。

「この人です」

 指先が止まった場所は、木島隆臣だった。

 詩織の中で、何かが一段深いところへ落ちた。

「間違いありませんか」

「はい。髪型は少し違ったけど、この人です」

 木島。

 昨夜、貴之を支えてこの部屋から出た男。

 しかも由香里の証言が正しければ、午前零時三十分過ぎ。

 詩織が貴之を死んだと思った、約十六分後だ。

「奥様、この人をご存じなんですか」

「夫の仕事関係の人です」

「連絡できます?」

「連絡先は分かりません」

 嘘ではない。

 ただ、貴之のスマートフォンや手帳に残っている可能性はある。

 もっとも、スマートフォンは警察が河川敷の遺体から回収しているだろう。

 由香里は時計を見た。

「私、そろそろ戻ります。娘を学校へ送り出さないと」

「警察には話したほうがいいと思います」

 詩織はそう言いながら、自分でも奇妙だと思った。

 警察に目撃情報が渡れば、貴之が深夜に自宅から出たことが確定する。

 自分の「夫は外出していない」という証言も崩れる。

 それでも、隠すほうが危険だった。

「分かっています。ただ、少しだけ時間をください。夫にも相談したいので」

「ご主人にも?」

「私一人の話じゃなくなるから。娘もいるし」

 由香里には由香里の生活がある。

 事件の目撃者になるというのは、詩織が思っているほど単純なことではないのかもしれない。

 玄関まで見送ると、由香里は靴を履きながら振り返った。

「奥様」

「はい」

「私、最初はご主人が酔ってるんだと思ったって言いましたよね」

「ええ」

「でも、今思い出したんです」

 由香里は玄関ドアへ手をかけたまま、声を落とした。

「エレベーターが来るまで、ご主人、壁にもたれてたんです。それで木島さんが何か言ったら、ご主人が笑ったんです」

「笑った?」

「はい。苦しそうだったけど、確かに笑ってました」

 詩織には想像できなかった。

 毒を飲まされ、自分が死にかけていると分かった人間が笑う。

「どんなふうに?」

「うまく言えないんですけど……」

 由香里は思い出そうとするように眉間へ皺を寄せた。

「怖がってる人の笑い方じゃなかったです。むしろ、自分のほうが何か知ってるみたいな感じで」

 詩織の脳裏に、貴之の笑顔が浮かんだ。

 相手が気づいていない欠点を、自分だけが知っているとき。

 議論の最後に勝つと分かっているとき。

 あの男は、よくああいう笑い方をした。

 由香里が帰ったあと、詩織はしばらく玄関に立っていた。

 やがて鍵をかけ、リビングへ戻る。

 テーブルの上には、木島隆臣の写った写真と、十二分遅れた壁時計が並んでいる。

 詩織は椅子へ座り、二つを交互に見た。

 午前零時十四分。

 貴之が死んだと思った時刻。

 午前零時三十分過ぎ。

 由香里が、貴之と木島を見た時刻。

 十六分ほどの差。

 だが、壁時計は十二分遅れている。

 昨夜、貴之が倒れたとき、詩織が見た壁時計は零時二分だった。

 スマートフォンは零時十四分。

 十二分のずれ。

 もし貴之が木島と、あの時計を基準に何か約束していたとしたら。

 考えかけて、詩織は手を止めた。

 まだ仮説にすぎない。

 自分の都合のいいように事実を結びつければ、貴之と同じことになる。

 詩織は写真を裏返した。

 そのとき、写真の下から一枚の紙片が滑り落ちた。

 集合写真と一緒に挟まっていたらしい。

 細長く折られたメモ用紙だった。

 開く。

 そこには、貴之の字で三行だけ書かれていた。

『木島 23:50』

『玲奈 00:12』

『予定変更なら十二分ずらす』

 詩織は最後の一行を、もう一度読んだ。

 十二分ずらす。

 偶然ではなかった。

 壁時計は、故障していたのではない。

 誰かが意図的に、十二分遅らせていた。

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